04巻:昭和天皇物語-欧州外遊ー

昭和天皇物語(4) (ビッグ コミックス) [ 能條 純一 ]

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シンガポールにて、艦上でマラッカ海峡植民地総督ギルマード卿の挨拶を受け、在留邦人の小学生児童の出迎えられた裕仁皇太子。

4日後には出航し、セイロン島コロンボにて外遊中初めての公式上陸。
特別列車でキャンディ王国に向かい、総督官邸で晩餐会。
ここで出航後、初めて地上のベットで眠りにつくのでした。

コロンボを出港した裕仁皇太子は、スエズ運河を目指して進みます。

その頃、日本では原敬が裕仁皇太子の帰国に合わせた摂政設置について和正しく動いていました。
宮内大臣・牧野伸顕に、摂政について草案を大至急まとめてほしいと頼みます。

 

ついに英国に

天皇陛下と皇后陛下がいる日光・田母沢邸に向かう原に、香取のボイラー室で破裂騒動があり、数名の死者が出た事が報告。
いらぬ心配をされかねんと国民への発表、そして皇后にも知られないようにと伝えます。

皇后の元に参上すると、久邇宮良子女王の父親である久邇宮邦彦王の振る舞いについて「あるまじき言動」と厳しく言います。
良子女王との婚約に反対した者達に、脅迫にも似た嫌がらせをしていたのでした。

「天皇家の外戚にあのような男がいては…」と、裕仁皇太子と良子女王との婚約を改めるかどうか考えているという皇后に、「陛下はどのようなご意見を…」と聞く原。
皇后は「それを私に答えろというのか」と一刀両断します。

 

大正10年4月。
お召し艦「香取」は、イギリス領エジプトのポートサイドに入港。
特別列車でカイロへと向かいました。

アレンビー元帥の誘いからピラミッド観覧に向かうのですが、ひどい砂嵐でピラミッドの姿も景色から消えかかっているほど。
その様子を、「大変貴重です」とカメラを熱心に向ける裕仁皇太子でした。

次に向かったのは、地中海を経たマルタ島。
殉難した駆逐艦「榊」の乗組員、戦死者が眠る地を訪問。

マルタ島から地中海を横切り、欧州の南西にあるイベリア半島イギリス領ジブラルタルに到着。
そこに、国際連盟の海軍代表として勤務する竹下勇とロンドン英国大使館に勤務する一等書記官・吉田茂が加わります。

ジブラルタルを出港後、ワイト島スピットヘッドで過ごした後、ポーツマス軍港に到着。
ついに英国に上陸します。
この時、裕仁皇太子は20歳になっていました。




 

天皇陛下の容態

裕仁皇太子の摂政設置手続きの草案がまとまったことから、元老・松方、牧野がそろって皇后に謁見。

9月に裕仁皇太子が戻られたら、すぐにでも摂政についてもらいたいと話します。
その言葉に「おまえら、陛下を退かせ、すべての国事を裕仁に委ねると…そう言いたいのだな!?」と迫ります。

 

その頃、別室で待機していた原は、天皇陛下が外を眺めながら独り言を言っているのに遭遇します。

原に気が付いた天皇から「誰だ?」と問われ、「原敬でございます」と答えますが、天皇はまったく覚えていないのか首をかしげます。

陛下の様子から何事かに気が付いた原。
その後ろに、いつの間にか皇后陛下の姿が。

気が付いた原に「誰よりもおまえが、摂政の設置を強く推進したと聞く…それは真実か!?」と問います。

原は座り込むと、「陛下の…このような状態が続けば、停止してしまいます!」と土下座。
辞令・布告・発令のすべてにおいて天皇陛下の署名が必要であり、これがなければ国家機能が停止しまうと、皇后に願うのでした。

 

天皇陛下の涙

裕仁皇太子のロンドンでの評判は上々でした。

ロンドンのヴィクトリア駅には国王ジョージ5世から出迎えられ、バッキンガム宮殿にて国王主催の公式晩餐会。
郊外の公園で在英邦人との懇親会、大英博物館の見学、日本大使館にてプリンス・オブ・ウェールズを主賓とした晩餐会と大忙しの日々。

「さすがにお疲れですか?」と尋ねる珍田供奉長に、「自由というものが、こんなにも素晴らしいものだと初めてしりました。実に楽しい。毎日が刺激的で…」と答えるのでした。

 

その頃、原の提案でベルギー・オランダ・イタリアへの追加訪問が提案されます。
この事に、皇后と弟の淳宮は渋い顔をします。

「陛下がこのような状態の時に、半年も日本を留守にするのは…」という淳宮に、「おまえが第一男子であったならな…」と皇后。

裕仁皇太子とはソリが合わない。
何を考えているのか、さっぱりわからない。
時々、あの子が怖くなる時がある。

…と、胸の内をこぼす皇后。
「おまえはずっと母の…陛下のもとにいてくれるね」という言葉に、「決して離れません」と淳宮。

隣室で横になっていた天皇は、そんな皇后と淳宮の会話に、静かに涙を流すのでした。

 

ロンドンのチェスターフィールド・ハウス皇太子宿舎に、国王が非公式に訪ねてきました。
どうしても裕仁皇太子に話しておきたいことがあったからでした。

英国は先の大戦から回復していない。
本来なら華々しい戦前の前の姿を見てもらいたかったけれども、今は対戦の傷跡がある今を訪問してもらう事に意義があると考えている。

戦争は風景も経済も破壊する。
破壊された都市、あらゆる家庭から殿下自身が教訓を得ることができる。

大英帝国の立憲君主制も必ずしも安定しているわけではないと、その旨を語ります。

 

国王を見送りながら、「ジョージ5世はなぜ私に対してああも優しい…?まるで、父のように優しい…」とこぼします。

英国王室のあたたかさ。
なんの隔たりの気持ちもなく、まるで普通の家庭のような対応に、裕仁皇太子は激しく感銘を受けていました。

付き添っていた吉田茂は、「天皇陛下に即位されたら皇室の改革をなさいませ」と助言します。

 

自由な時間

大正10年、5月。
英国・ケンリー飛行場で、英国の優秀な操縦士の腕前に感心した裕仁皇太子の様子に、近い将来、日本海軍にパイロット教師団を派遣する事を相談すると約束してくれたエドワード皇太子。

移動の電車の中で、エドワード皇太子に頼んでよかったのかと思案する裕仁皇太子に、珍田供奉長は「将来的に日本に貸しができると、お互いの国に有益になる話し合い、これこそ国と国とのおつきあいでございます!」と、むしろ皇太子が喜んでいると言いきります。

一路、電車はスコットランドに。
のどかで美しい風景に、裕仁皇太子が「この風景…見せてあげたい」と思うのは、久邇宮良子女王でした。

 

エジンバラ古城についた裕仁皇太子。
散策しながら、「市民と同じ様に地下鉄に乗ってみたい」と珍田供奉長に言いますが、警護の理由から却下されてしまいます。

英国で過ごすなかで、裕仁皇太子の中である変化が起きていました。

幼い頃からすべて“予定”で成り立っていた生活。
自由時間でもさえも“予定”の一つに過ぎず、物心ついた頃から淡々とこなしていく事に慣れていました。
それが、自分の「義務」であり「使命」と思って。

それが、西洋外遊にて“自由”について知るようになり、その事に、裕仁皇太子も戸惑ってしまっているのです。

そんな状態の裕仁皇太子が、ブレア城に到着。
出迎えてくれた城主のパース公が開口一番に言ったのが、

「なんのご予定もご用意しておりません。すべての殿下のお心次第。お気に召すまま、お気楽にお過ごしください」

この言葉に、裕仁皇太子とお付きの者達も言葉を失くします。

 

自由に過ごす裕仁皇太子一行。

メンタル湖では侯爵夫人手作りのマフィンを堪能。
豊かな森や山々、素晴らしい眺望に時間を忘れてしまうほど。

翌日には、「少し離れたところにマス釣りの名所があるのですよ」とのお誘いから、伯爵自身の運転で向かいます。
侯爵の手引きから見事なマスを吊り上げた帰り、侯爵自身が釣ったマスを通りがかった村人に渡している様子を静かにみつめる裕仁皇太子。

その夜の晩餐会で、侯爵夫人の奏でるピアノの演奏に良子女王を思い出していると、大勢の村人たちの姿が。
侯爵は上着を脱ぐと「輪になって踊りましょう」と、演奏に合わせて皆で踊り始めました。

裕仁皇太子たちも、戸惑いながらも参加。
最初はおぼつかない足取りでしたが、次第に慣れ踊れるように。

上下の区別、国の区別なく誰もが手を取り合って楽しく踊る姿に、「アソール公その人、およびその生活は貴族の模範でした」と、強烈なカルチャーショックを与えたのでした。

 

初めての地下鉄

日本では、原敬が率いる立憲政友会の支持率が著しく下がっていました。
党内部で汚職事件が発覚している事、普通選挙はまだ早いとして否定しているからでした。

この頃、鉄道建設の路線拡大を推進していたのですが、まだ一般市民には受け入れられていない状態。
原は粘り強く、地方遊説を続けます。

そんな原の苦しい状況は、皇后の耳にも届いていました。

牧野とその事について話していると、そこに「ここにおったのか」と天皇陛下がふらりと入ってきます。
慌てて自室へと促す皇后。

挨拶する牧野ですが、自分の事を忘れている様子に、天皇の病状が悪化していることを悟ります。

 

その頃、裕仁皇太子はエッフェル塔からみえる景色を楽しんでいました。
お土産屋さんでは、良子女王へのお土産を買うほど。

さらに、お供する国際連盟勤務の竹下勇中将に、「パリ市民のように地下鉄に乗ってみたい」と無茶ぶり。
珍田供奉長に聞かないとと一度は断るのですが、残念そうにする裕仁皇太子の姿から、昼食後の自由時間に内密で行く事を約束してしまいます。
喜ぶ裕仁皇太子。

そして、自由時間。
竹下と共に地下鉄に乗るのですが、すべてが初めてで珍しい裕仁皇太子はあっちをみたりこっちをみたり。
出るときには、切符を渡すのを拒むほどの入れ込みようです。

地下鉄を堪能した後には、「フランスにはかたつむりを食べさせる料理があるそうだな…」と、さらなるお願いをするのでした。

 

高まる原への不満

大正10年、6月。
パリ北駅を出発した裕仁皇太子は、車窓から見える戦跡を見つめていました。
イギリスで言われたジョージ5世の言葉が思い出されます。

ベルギーに到着した裕仁皇太子は、アントワープ港の見学や先代国王レオポルド2世の陵に参拝、コンゴ博物館の見学。
そして、第一次世界大戦の激戦地であるイーペル戦場跡に。

そこでジョージ5世の言葉通りであったと、戦争について身を持って体感するのでした。

 

その頃、東京では原敬へ不満を抱える人が大勢集まっていました。
高い税金を払った25歳以上の男子しか選挙権がないという事に対して、総理官邸で抗議。

さらには、陸軍からも「帝国陸軍がシベリアから撤退するなどありえない!」と、命令を拒否する旨を伝えに押しかける軍人の姿も。

心配する部下に、「国民の信頼を取り戻すために、本格的に全国遊説をするしかない」と言う原。
「今の時期に危険です!」と止めるのも聞きません。

総理官邸前で抗議をするたくさんの人の中に、腕を組んで静観している男がいました。

抗議後、男は浅草で短刀を購入。
東京駅から出かける原を観察すると、「護衛は秘書ひとり…不用心なこった」とつぶやくのでした。

 

大正10年、7月。
最後の訪問国イタリアを後にする裕仁皇太子。
いよいよ帰国です。

その途中、竹下が国際連盟の会議に出席するために船を降りると聞いた裕仁皇太子は、「竹下のおかげで、かけがえのない宝物を手に入れた」と、パリの地下鉄にのった際に持って持ち帰った切符をポケットから取り出してみせました。

「なにとぞご内密に!」と慌てる竹下でした。

 

皇后の元に、イタリア・ナポリ港を出港したことを告げると、「実にめでたい」と微笑みます。

地方遊説の疲労も芳し原の方でも、「あとひと月の辛抱だ…殿下がお戻りになる」と裕仁皇太子の帰国を心待ちにするのでした。

そして、良子女王の元には、一足先に裕仁皇太子からハガキが届きます。
それは、パリからのもの。

さまざまな人の思惑と動き。
裕仁皇太子の帰国を待っているのでした。

 

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