昭和天皇物語(3) (ビッグ コミックス) [ 能條 純一 ] 価格:712円 |
久邇宮良子さんとの婚約が内定したものの、また新たな心配事が持ち上がります。
学習院内での身体検査にて、久邇宮邦彦王の三男である邦英王に色弱の疑いがあることが発覚。
久邇宮さらには母方の島津家を調査したところ、邦彦王の長男・朝融(あさあきら)王、叔父である島津忠重にも色弱が認められるといった結果が。
このことから、島津家は色弱の遺伝子を持つ疑いがあり、邦彦王の奥方・俔子(ちかこ)妃、ひいては良子女王にもその可能性があると。
当時(1909年)の陸軍では、色覚に異常がある場合は現役将校に採用しないという方針がありました。
そのため、色弱の疑いがある良子との結婚は、生まれてくる天皇の皇子が大元帥になれない可能性があるという事。
この報告を受けた山縣は、裕仁皇太子と良子女王の結婚を認めるわけにはいかないと動き始めます。
婚約破棄への動き
皇族会議にて、一部の皇族の立場を華族に降下させる議案が可決したことから、宮内大臣の波多野が辞任。
それを聞いた皇后は「そんなものは名目にすぎん!」と、その時の会議について、特に山縣の様子について詳しく聞きます。
裕仁皇太子も出席したいたその会議には、久邇宮邦彦王や原総理の姿も。
議案が可決されたことに「我々に皇族を辞めよと…そう申すのか!?」といきり立つ久邇宮邦彦王。
そんな久邇宮邦彦王を、山縣は「殿下の前でご無礼ですぞ!」と叱責し、さらには「あのような野蛮な方を義父と呼びとうはありませんな」と言ったのでした。
その言葉に「戯けた事を」と一蹴する皇后。
山縣が本気で良子との婚約を潰す気でいることに、原総理や裕仁皇太子の様子をさらに聞きます。
さぞや悲しい顔をしているに違いないと思った裕仁皇太子が笑っていたという話に、皇后は思わず聞き返すのでした。
久邇宮敷地内に建てられた、良子の皇太子妃になる為の学問所、通称「お花御殿」。
授業内容は裕仁皇太子と同じで、倫理の講義は杉浦重剛が担当していました。
いつものように授業をし帰路に着こうとする杉浦に、御学問所責任者の後閑菊野が宮内省の眼科医から送られてきた封書が渡されます。
その内容は、久邇宮良子女王は色覚障害の遺伝子を持っており、生まれる男児が色弱になる可能性があるというもの。
これを見た杉浦は激怒します。
その頃、帝国議会議事堂にいる原総理の元を、波多野が訪ねます。
自分の後任に中村裕次郎中将がなったことを伝えると、「山縣さんの手下官僚ですな」と一言。
波多野は、裕仁皇太子と良子女王の婚約について原総理がどう考えているのかを聞くと、「山縣さんの陛下に対する、ある種の忠誠心は、我々には到底理解できないものがある」と、自身が思う事を語るのでした。
久邇宮邦彦王の元を伏見宮貞愛親王が訪ね、婚約を辞任するように伝えます。
久邇宮邦彦王の元にも宮内省の眼科医から意見書がきていたことからも、婚約辞任の理由についてはわかっていました。
「私の娘も今上陛下とのご婚約の際に病の疑いありとして、明治大帝のご下命によい辞退した」と自身の経験をもとに説得するのですが、「陛下の決定ではなく、山縣の決定ではないか!」として、断固拒否します。
陛下の決定であれば、納得できる。
良子の婚約を破棄されたら腹を切るとまで言い切ります。
一方、良子との婚約破棄の動きは、皇后や裕仁皇太子の耳にも。
件の件について納得できない杉浦は、まだ修了まで4か月もある御学問所ですが、「倫理上の大問題だ」として辞表を提出します。
「もしも私が元老たち(山縣他)の動きに迎合すれば、私の7年間の教えは水泡に帰します。命のをかけて、この婚約破棄を諌止します」と出ていく杉浦。
東郷総裁は「一理ある。不確かな理由で婚約破棄…皇室をも恐れぬ山縣さんの態度は、近頃目に余るものがある…」と、辞表を手に何かを考えるように言うのでした。
杉浦が外に出ると、そこには裕仁皇太子の姿が。
「命をかけて国も守るも、ひとりの女子を守るも、男子の本懐」と、杉浦がかつて授業でいった言葉を口にします。
「先生の教えを肝に銘じ、これからも生きてゆきます」と言う裕仁皇太子の言葉に、杉浦は「御意!」と答えるのでした。
宮城の陛下の部屋を訪ねた皇后。
「節子は辛うございます」とつぶやく皇后に、陛下は「天皇家を守るためにも、早く裕仁を摂政にしなさい」と頼みます。
その宮城の外では、杉浦が座り込んで陛下のご病気平癒祈願と、裕仁皇太子と久邇宮良子女王の婚儀がつつがなく執り行われるように祈っていました。
そんな杉浦を不審者扱いした警備に「小田原にいる黒キツネが、皇太子殿下と良子女王のご婚儀を無きものにしようと画策しておる!」と叫びます。
その声に周囲の人々も反応し、集まり始めます。
その報告を聞いた原総理は、「そいつはまずいな」と。
「ご婚儀についての問題で…皇室に対しても、政府に対しても、国民に不信感を抱かれたなら…それはすなわち国体存続の危機」として、誰かが国民にわかるように早急に責任をとらなければ示しがつかないと。
その後、中村宮相が辞任を表明。
その話を聞いた山縣は、宮内省と原総理に会うために、小田原から東京へと急ぎ向かうのでした。
裕仁皇太子、動く
裕仁皇太子が、突如、宮城の皇后を訪ねます。
予告なしの参内に訳を尋ねると、「直接、母上にお礼を申し上げたく」と答える裕仁皇太子。
裕仁皇太子は、皇后も色弱の遺伝子を持つ疑いがある久邇宮良子女王との婚儀を反対するのではないかと思い、「婚約を快く承諾してくれた」とお礼を言う事で先手を取ろうとしたのです。
「もしも私が反対したらどうするつもりだったんだい?」と問う皇后ですが、裕仁皇太子の「私は国民を裏切りたくはありません」という言葉を聞き、その思慮深さに感心します。
そして、もう一つの目的である裕仁皇太子の願いを聞き入れるのでした。
その頃、帝国議会議事堂に到着した山縣は、原総理に裕仁皇太子の婚儀について厳しく追及していました。
が、そこに皇后から「至急宮城に参内するように」との使者が。
駆け付けた山縣に皇后は、「この後の事…生涯、口に出すのは控えてほしい。墓場まで持っていく秘密事。約束出来ますね?」と、意味深な言葉をかけます。
訳も分からず示された部屋の扉の前に立つと、ガラス越しに裕仁皇太子の姿が…。
山縣が近寄ると、「今日、この日本国があるのは、あなたの血と汗と涙があってのこと。心より感謝します。」と声をかける裕仁皇太子。
山縣はありがたき言葉としつつ、「しかし、人は私を権力の亡者と申します」と、いかに自分が日本を大事にしているか、皇室へ強い忠誠心を持っているかを述べます。
そして、良子女王との婚姻を破棄するように言いかけた時、裕仁皇太子がそれを遮るように「良子でよいのだ」と強く、はっきりと言います。
その言葉に二の句を告げずにいる山縣に、さらにもう一度言います。
部屋を出た山縣は、皇后とすれ違う際に「今、明治大帝とお会いして参りました。」といい、静かにその場を去るのでした。
その後、裕仁皇太子と良子女王との婚約は変更なしと新聞にて国民に知らされます。
欧州外遊のすすめ
内閣総理大臣の原敬が東宮御学問所に招かれ、特別授業として外務書記官としてパリ公使館に勤務した経験や世界一周漫遊旅行をした体験談を語ります。
そこで、裕仁皇太子にも西洋視察を勧める原。
講師の一人である浜尾は、これに猛反対として、授業中にもかかわらず原に食いつきます。
さらに原は、裕仁皇太子の西洋視察について、体調が思わしくない陛下に代って話を聞いた皇后に直談判します。
皇后からその話を聞いた天皇陛下は、「それは素晴らしい!」と、賛成しかねている皇后とは真逆の反応。
その理由は、自分が皇太子の時に願った欧州外遊が明治大帝に大反対されて叶わなかったから。
「裕仁には私の夢を叶えてほしい」という言葉で、裕仁皇太子の欧州外遊に向けて動き始めるのでした。
大正10年(1921年)、2月。
裕仁皇太子の欧州外遊に向けて、東宮御学問所における講義が1ヵ月繰り上げられて修了。
修了式の後、外で相撲を取っている学友の一人に、裕仁皇太子は「今日は修了式…もうわざと負けないでほしい」と、学友としての真剣勝負を申し出ます。
その気持ちに、「わかりました!真剣勝負です」と答える松平君。
東郷や杉浦なども見守る中、一気に寄り切られピンチ。
浜尾が「負けたら欧州外遊は中止ですぞーーー」との言葉に、ふんぬと力いっぱい松平君を持ち上げ場外に。
周囲から、拍手が沸き起こります。
その頃、原敬の元に数えきれないほどの脅迫状が届いていました。
そのどれもが、「欧州外遊を殿下にそそのかした」というもの。
さらに、官邸のほうにも直談判に押しかける者も。
警護を強化しましょうという側近に、「宝積(ほうじゃく)」という言葉について説くのでした。
欧州外遊に出発
大正10年(1912年)、3月。
裕仁皇太子が欧州外遊外遊のため、東京駅から電車に乗って横浜港に。
東京駅では、弟の淳宮と光宮が見送りに。
車中、外遊前に良子女王にしばしのお別れの挨拶をしておけばよかったと思う裕仁皇太子。
19歳の頃でした。
横浜港では、裕仁皇太子の外遊を妨害するといった噂に心配していた原敬が、見送りのため待っていました。
裕仁皇太子は、「香取」に乗って出発です。
その頃、兄の裕仁皇太子を見送った淳宮と光宮は、御所に帰る前に宮城の皇后陛下の元に寄ります。
二人の訪問に喜ぶ皇后。
陸軍士官学校の様子を訪ねる皇后に、「“考道”についてお伺いしたいと思います」と、今回の裕仁皇太子の西洋外遊について問いかける淳宮。
「陛下が療養中なのに、なぜ西洋視察に行くのか?」
これは、淳宮だけでなく杉浦も思っている事であり、皇后も同じく。
天皇家は政治家の言いなりではない続ける淳宮に、「裕仁の考えていることは、私にはどうしてもわからない。情けない事よ」と言います。
一方、香取に乗った裕仁皇太子は、閑院宮載仁親王(皇族、元師、陸軍大将)からステーキの食べ方について問われます。
箸で持って食べていたと答えると、その場にいた全員が驚愕。
その日から、西洋のマナーを山本信次郎が教えることになります。
初めての皇族による沖縄訪問
読書を楽しむ裕仁皇太子。
お付きの者のほとんどが、慣れない船旅に船酔いを起こしていました。
吐きたいのを必死に耐える武官長に、「休むように。これは命令です」と告げ、珍田供奉長の元を訪ねます。
珍田供奉長は、漢那艦長と最初の停泊地についてもめていました。
予定通り香港にという珍田供奉長に対し、皇后陛下からもお言葉を賜わったとして、出身地の沖縄に寄港したいと願う漢那艦長。
皇后陛下の言葉からも、沖縄県では知念岬におおきなやぐらまで立てて裕仁皇太子を奉送する準備も進められており、漢那艦長としては是が非でも沖縄に寄港したいのでした。
そこに裕仁皇太子が現れ、「沖縄にはイラブウナギがいるのだろう?食してみたい」と述べ、沖縄への寄港を決定します。
香取が沖縄に寄港する事は各要所にも連絡が入り、宮城の天皇陛下も知るところとなります。
それを聞いた天皇は、「裕仁は自らの手で歴史の扉を開いたか」と、皇后に述べ、宮城を裕仁に明け渡すと宣言。
引っ越し先に日光の田母澤を挙げるのでした。
そして大正10年3月。
香取は沖縄の中城に寄港。
港から与那原駅まで歩き、与那原から沖縄県営鉄道で那覇に。
ただし、イラブウナギを食したという記録はどこにも残されていません。
おとり替え玉大作戦
沖縄を出た香取は、次なる入港に向けて緊張を高めていました。
場所は香港。
裕仁皇太子の命を狙っている噂も出回っており、安全をとるためにも上陸を断念したほうがいいのではないかという話も上がっていました。
決めかねている中、「危険だから一歩も外にでないというのは、何のための外遊でしょうか」と、おとり替え玉作戦が提案されます。
裕仁皇太子に似た替え玉を車に乗せ、本物の裕仁皇太子は自由に香港の待ちを動くという内容に、裕仁皇太子も「おもしろそうだ」と乗り気です。
裕仁皇太子の替え玉役には、北白川宮家の出身で臣籍降下となった小松を抜擢。
香港に到着し、船から降りた小松は、集まった在留邦人に笑顔を向けます。
移動する車の中でも笑顔で手をふる小松。
…と、小さな声で「皇太子殿下に生まれてこなくてよかったです!」と、隣に座る奈良武官長に一言。
「はぁ!?」とびっくりする奈良に、「皇太子殿下は、24時間毎日“皇太子殿下”。私は30分でもう身が持ちません!!」と弱音をこっそり吐くのでした。
その頃、本物の裕仁皇太子は、車に乗ってお付きの者2名と共にヴィクトリアピークに向かっていました。
自由を満喫する裕仁皇太子の表情は明るく、異国の風景に圧倒されていたのでした。
一方、日本で原敬が、裕仁皇太子が戻ってきた時、摂政に就任できる体制をつくるべく精力的に動いていました。
そんな原に何度か電話を入れる山縣。
夢に出てくる男性の後ろ姿、そして流れる血…それが原敬を示しているようで不安になって電話を掛けていたのでした。